高取山(高取城址)ハイキング [山日記]
2019年12月8日(日)
奈良県の高取城址へ行って来ました
前日は大阪で旧友達と忘年会があり、翌日は神奈川に帰るだけですので少し足を伸ばしてみました
朝大阪を出て、近鉄吉野線で壺坂山という駅に降り立ちました
駅で案内のパンフレットをもらいその地図を頼りに
歩くことにしました
パンフレットは次のようなものでした
表
裏・・・地図になっていました
城址へは旧街道を通る道と途中、壺阪寺を経由する道とが
あるようでしたが、以前車で行ったことがある壺阪寺を
もう一度行ってみたいと思い、壺坂ルートを行くことにしました
駅のすぐそばを国道169号が走っていて、壺阪寺へはそれを
右(吉野方面)へ行きます
しばらく進むと、このような案内板の立っている交差点が
ありました
案内図に載っているお好み焼きのお店の看板です
更に進んで、国道が上り坂になり少し行くと壺阪寺への
道がありました ここを左へ入りました
しばらく行くと左に旗が立った大きな橋がありました
ここはまっすぐ行くのとこの橋を渡っていくのとふた通り
の選択肢がありました。私はこの橋を渡らず直進を選択
しました
道が少し上りの傾斜が急になるころ、壺阪寺に着きました
ここを左に入って、お寺を拝観しました。
寺については別の投稿にすることして、高取城址への
行程を披露することにします
寺からは、高取城址への道がついていました
そこを上がっていくと、先ほど歩いてきた道路の上の方に
出ることができました
この道を上がっていくと今見てきた寺の三重塔が見事な
紅葉の中に建っていました
しばらく行くとこのような道標がありました
ここで舗装道路と別れてハイキング道に入りました
少し登ると五百羅漢経由とそうでない道に分かれました
私はここを右に行って五百羅漢を通らない道を選びました
道は細くスギの木をよけながら続いていました
少し進むと五百羅漢を経由してくる道と合流しました
緩やかな道が続きます
あと城址まであと1kmとかいてありました
林道に出ました。
林道を少し進むとお城の入り口のようなところにでました
少し登ったところに大きな石碑が立っていました
史跡「高取城址」と書いてありました
また少し行くと林道が広くなったようなところに出ました
お城の案内図などがありどうやらここがお城の入り口の
ようでした。
入り口にはトイレもありました
ここを左へ入っていくと、いよいよお城の中に入って
行くようでした
石垣が出てきました
ワクワクする思いで歩を進めました
道にはところどころにこのような石碑が建てられていました
史跡「高取城址」
崩れた石垣
壺阪門跡
行く手に木製の階段がでてきました
これは昔あったものではなく、観光用につけられたものの
ようです。(趣はありません)
石垣が道の両側に
壺阪口中門跡
野面積みの典型的な石垣
前の写真の石垣に沿って真っすぐに進むとようやく
本丸まで200mという標識が出てきました
私がたどってきた道はどうやら裏手で、ここで表からの
道と合流した模様です
二の門跡は表からの道の門のようでした
大手門跡 いよいよ中枢部です
大手門跡を通って行くと
城内の紅葉
十三間多門跡 枡形が構成されています
石垣の間にきれいなモミジが
十三間多門をを入った所から登って来た道を振り返りました
行程を披露することにします
寺からは、高取城址への道がついていました
そこを上がっていくと、先ほど歩いてきた道路の上の方に
出ることができました
この道を上がっていくと今見てきた寺の三重塔が見事な
紅葉の中に建っていました
しばらく行くとこのような道標がありました
ここで舗装道路と別れてハイキング道に入りました
少し登ると五百羅漢経由とそうでない道に分かれました
私はここを右に行って五百羅漢を通らない道を選びました
道は細くスギの木をよけながら続いていました
少し進むと五百羅漢を経由してくる道と合流しました
緩やかな道が続きます
あと城址まであと1kmとかいてありました
林道に出ました。
林道を少し進むとお城の入り口のようなところにでました
少し登ったところに大きな石碑が立っていました
史跡「高取城址」と書いてありました
また少し行くと林道が広くなったようなところに出ました
お城の案内図などがありどうやらここがお城の入り口の
ようでした。
入り口にはトイレもありました
ここを左へ入っていくと、いよいよお城の中に入って
行くようでした
石垣が出てきました
ワクワクする思いで歩を進めました
道にはところどころにこのような石碑が建てられていました
史跡「高取城址」
崩れた石垣
壺阪門跡
行く手に木製の階段がでてきました
これは昔あったものではなく、観光用につけられたものの
ようです。(趣はありません)
石垣が道の両側に
壺阪口中門跡
野面積みの典型的な石垣
前の写真の石垣に沿って真っすぐに進むとようやく
本丸まで200mという標識が出てきました
私がたどってきた道はどうやら裏手で、ここで表からの
道と合流した模様です
二の門跡は表からの道の門のようでした
大手門跡 いよいよ中枢部です
大手門跡を通って行くと
城内の紅葉
十三間多門跡 枡形が構成されています
石垣の間にきれいなモミジが
十三間多門をを入った所から登って来た道を振り返りました
本丸下のご神木
本丸前のモミジ
本丸入り口
本丸入り口 ここから入ってもう一段上がる
もう少しで本丸の広場です
本丸の広場に立ちました!
本丸からの下界の眺め(南側)です
本丸の石垣の北の端から、石垣を見下ろしました
三角点がありました
本丸の全容です この台地がぐるっと石垣で囲われています
私はその石垣の上の日当たりの良いところに腰掛けてパンを
一つ食べました 気分爽快でした
本丸の説明書きです
パンを食べたあと、残りの半分の石垣の上を回りました
ほぼ一回りしたらご神木の所に戻ってきました
ここの石垣は野面積みではありません
一回りして下山開始しました
大手門を出たところの紅葉です
帰りは土佐街道へおりる道を行くことにして、大手門の少し先で
登って来た壺坂道を左に見て直進をしました
門跡が次から次へ出てきました
千早門跡です
宇陀門跡です
松の門跡です
矢場門跡
国見櫓分岐
ここで左へは入って国見櫓跡へ行ってみました
案内板がありました
国見櫓から奈良の町を見渡せました
香具山とか耳成山と思われる山がみてとれました
二の門跡
猿石
岩屋不動
ここは寄り道せず素通りしました
下山道の一景
今、下っている道は大手道と言うようで、その説明が書いて
ありました
道がくねった七曲がり
山道をほぼ下りきると小さな川に沿った道になりました
大和川の源流に近い流れです
宗泉寺の入り口 よらずにパスしました
そして道はこのようにきれいに整備されていました
この道を通って城に向かうときは、この辺りを城の入り口
として案内をしているのでしょう、道標がしっかりと立って
いました マップの砂防公園と言うところ辺りです
すぐその下流に水車小屋がありました
高取城址のCGによる再現写真です
どこかの大学が取り組んでいるようです
壮大な山城出であったことがよく分かります
私はこの道標を見間違えて土佐街道を目指しながら別の
道を進んでしまいました
地図では山から下ってきた道をそのまま真っすぐに行けば
土佐街道に出るはずでしたが、そうではなくここで少し
左へ行ってから右へ行かないとダメなようでした
真っすぐ行ってこの看板のある所を左へ行っても良かった
ようですが私はここも頑固に真っすぐに行ってしまい
いよいよおかしいと気づき土地の人に聞いてここまで
戻ってきました大きな時間ロスでした
上の道を真っすぐ来ると駅前に出ました
帰りは土佐街道へおりる道を行くことにして、大手門の少し先で
登って来た壺坂道を左に見て直進をしました
門跡が次から次へ出てきました
千早門跡です
宇陀門跡です
松の門跡です
矢場門跡
国見櫓分岐
ここで左へは入って国見櫓跡へ行ってみました
案内板がありました
国見櫓から奈良の町を見渡せました
香具山とか耳成山と思われる山がみてとれました
二の門跡
猿石
岩屋不動
ここは寄り道せず素通りしました
下山道の一景
今、下っている道は大手道と言うようで、その説明が書いて
ありました
道がくねった七曲がり
山道をほぼ下りきると小さな川に沿った道になりました
大和川の源流に近い流れです
宗泉寺の入り口 よらずにパスしました
そして道はこのようにきれいに整備されていました
この道を通って城に向かうときは、この辺りを城の入り口
として案内をしているのでしょう、道標がしっかりと立って
いました マップの砂防公園と言うところ辺りです
すぐその下流に水車小屋がありました
高取城址のCGによる再現写真です
どこかの大学が取り組んでいるようです
壮大な山城出であったことがよく分かります
私はこの道標を見間違えて土佐街道を目指しながら別の
道を進んでしまいました
地図では山から下ってきた道をそのまま真っすぐに行けば
土佐街道に出るはずでしたが、そうではなくここで少し
左へ行ってから右へ行かないとダメなようでした
真っすぐ行ってこの看板のある所を左へ行っても良かった
ようですが私はここも頑固に真っすぐに行ってしまい
いよいよおかしいと気づき土地の人に聞いてここまで
戻ってきました大きな時間ロスでした
上の道を真っすぐ来ると駅前に出ました
完
壺坂寺 [寺社仏閣]
2019年12月8日(日)
高取城址へ行った折に立ち寄った壺坂寺の報告です
高取城址へ行った折に立ち寄った壺坂寺の報告です
壺坂山駅から国道169号を吉野方面に歩いて、高取城址の道標に沿って
左折、しばらく緩やかな登りを行くと壺坂寺入り口のカンバンが
出てきました
坂を登っていくと広場にでました
そこから寺の全容が見えました
広場の奥に入山受付がありました
受付の後に大きな建物があってそのその側面に
寺の概要を書いた説明板がありました
(これではちょっと読めませんね・・・)
説明文を書き写しておきます
社会福祉法人 壺坂寺聚德会 壺坂寺(南法華寺)
壺坂寺は大宝3年(西暦703年)弁基上人によって開かれた霊山で、
正式には「壺坂山南法華寺」と言います。十一面千手観音様をご本尊
として祀る観音信仰の一大道場で西国霊場の第六番札所です。古来から
眼病に霊験あらたかな寺として信仰され、説話「壺坂霊験記」における
お里・沢市の話はあまりにも有名です。また、日印合同でさまざまな
浄業を行っており、境内にはインドで製作された大観音石像(全高20m)
や仏伝図石像レリーフ(全長50m)、大涅槃石像(全長8m)などの
大石像美術が安置されています。
「壺坂寺」は昔から目の不自由な人々にとっての聖地としての厚い
信仰と、深い願いが込められ、全国各地から訪れる人が絶えません。
そして、この地に住みたいという老人たちの願いに応えるのが真の老人
福祉であるという、故常磐勝憲長老の情熱と信念、多くの人々の善意が
結実して、昭和36年我が国で最初の「養護盲老人ホーム慈母園」が
誕生しました。さらに、故常磐長老の「思いやりの心を 広く深く」の
呼びかけの下に、昭和45年より法人名を”壺坂寺聚徳会”と改名し、
様々な福祉事業を行っております。
この前を通って進むと一段高いところに仁王門がありました
門の左右に仁王様が立っていました(阿形、吽形というのでしょう)
立派な彫刻でした
仁王門の説明が書いてりました
門を入ると右側には大仏、左側には多宝塔、その奥には
灌頂堂がありました
大仏(大釈迦如来石像)
このお寺がインドのハンセン病患者救済に尽力したことに
よってインドとの交流が始まり、この大仏はインドから
贈られたものだそうです
大仏の説明
この写真では字が読めないので下記に記載します
天竺渡来 大釈迦如来石像
十一面千手観音菩薩石像
文殊菩薩石像
普賢菩薩石像
これら大石仏群は、インドから招来された。
インドでの奉仕活動のご縁から始まった
国際交流・石彫事業の一環で、製作された。
二十一世紀初頭より、世界中で起こった暴力
や中傷などによって痛んだ心を癒やすために
建立された。
また、先に、招来した大観音石像、大涅槃石像
も拝し、心を大きくして、周りの人へと自然に思
いやりの心を広く、深くして頂きたい。
文殊菩薩は釈迦如来の「智慧」を、普賢菩薩は
「行」観音菩薩は「慈悲」を表している。
左折、しばらく緩やかな登りを行くと壺坂寺入り口のカンバンが
出てきました
坂を登っていくと広場にでました
そこから寺の全容が見えました
広場の奥に入山受付がありました
受付の後に大きな建物があってそのその側面に
寺の概要を書いた説明板がありました
(これではちょっと読めませんね・・・)
説明文を書き写しておきます
社会福祉法人 壺坂寺聚德会 壺坂寺(南法華寺)
壺坂寺は大宝3年(西暦703年)弁基上人によって開かれた霊山で、
正式には「壺坂山南法華寺」と言います。十一面千手観音様をご本尊
として祀る観音信仰の一大道場で西国霊場の第六番札所です。古来から
眼病に霊験あらたかな寺として信仰され、説話「壺坂霊験記」における
お里・沢市の話はあまりにも有名です。また、日印合同でさまざまな
浄業を行っており、境内にはインドで製作された大観音石像(全高20m)
や仏伝図石像レリーフ(全長50m)、大涅槃石像(全長8m)などの
大石像美術が安置されています。
「壺坂寺」は昔から目の不自由な人々にとっての聖地としての厚い
信仰と、深い願いが込められ、全国各地から訪れる人が絶えません。
そして、この地に住みたいという老人たちの願いに応えるのが真の老人
福祉であるという、故常磐勝憲長老の情熱と信念、多くの人々の善意が
結実して、昭和36年我が国で最初の「養護盲老人ホーム慈母園」が
誕生しました。さらに、故常磐長老の「思いやりの心を 広く深く」の
呼びかけの下に、昭和45年より法人名を”壺坂寺聚徳会”と改名し、
様々な福祉事業を行っております。
この前を通って進むと一段高いところに仁王門がありました
門の左右に仁王様が立っていました(阿形、吽形というのでしょう)
立派な彫刻でした
仁王門の説明が書いてりました
門を入ると右側には大仏、左側には多宝塔、その奥には
灌頂堂がありました
大仏(大釈迦如来石像)
このお寺がインドのハンセン病患者救済に尽力したことに
よってインドとの交流が始まり、この大仏はインドから
贈られたものだそうです
大仏の説明
この写真では字が読めないので下記に記載します
天竺渡来 大釈迦如来石像
十一面千手観音菩薩石像
文殊菩薩石像
普賢菩薩石像
これら大石仏群は、インドから招来された。
インドでの奉仕活動のご縁から始まった
国際交流・石彫事業の一環で、製作された。
二十一世紀初頭より、世界中で起こった暴力
や中傷などによって痛んだ心を癒やすために
建立された。
また、先に、招来した大観音石像、大涅槃石像
も拝し、心を大きくして、周りの人へと自然に思
いやりの心を広く、深くして頂きたい。
文殊菩薩は釈迦如来の「智慧」を、普賢菩薩は
「行」観音菩薩は「慈悲」を表している。
合掌
多宝塔(手前)と灌頂堂(奥)
多宝塔は寺の記載としてそう書いてあったかどうかは
未確認です(形から私が勝手に呼称しました)
更に進むと道がつづらおりになってその先階段を上がると
あまり大きくないお堂がありました
堂の内壁に飾ってある絵画の説明
堂内の展示品の一つ・・・・小さな涅槃蔵像
このお堂の中を通って、
三重の塔や本堂が立つ広場に出ました
三重塔の背後の山は色づいた木々の葉がつかの間の美しさ
を輝かせていました
三重塔
塔は明応六年(西暦1497年)に再建されたものと思われ、
重要文化財に指定されています
筆者は2010年秋にもここを訪れていますが、そのときは
三重塔の扉が開かれ、中に秘仏「大日如来座像」がおかれて
いましたが今回は扉が開いていませんでした
多宝塔は寺の記載としてそう書いてあったかどうかは
未確認です(形から私が勝手に呼称しました)
更に進むと道がつづらおりになってその先階段を上がると
あまり大きくないお堂がありました
堂の内壁に飾ってある絵画の説明
堂内の展示品の一つ・・・・小さな涅槃蔵像
このお堂の中を通って、
三重の塔や本堂が立つ広場に出ました
三重塔の背後の山は色づいた木々の葉がつかの間の美しさ
を輝かせていました
三重塔
塔は明応六年(西暦1497年)に再建されたものと思われ、
重要文化財に指定されています
筆者は2010年秋にもここを訪れていますが、そのときは
三重塔の扉が開かれ、中に秘仏「大日如来座像」がおかれて
いましたが今回は扉が開いていませんでした
三重の塔の向こうは美しい紅葉でした
三重塔の正面は目の祈りの場所でした
ここを合掌してくぐると眼病が平癒するとのこと
三重の塔全景
本堂全景(後に六角堂を伴っている)
壺坂霊験記のお里澤市の像
本堂を横から見ました
私には後に従えた六角堂が傾いて見えるのですが?
本堂へはスロープが着いていて車椅子でも入れそうです
本堂の中
手前が外陣、奥が内陣と言った堂内の配置になっていて
奥の内陣部分は六角堂の中に配置されていました
本尊は十一面千手観音です
仏様のお顔は東南アジア系のお顔にみえました
外の紅葉
道路を隔て、少し山側に登った所に大観音石像が立って
いました
インドに対するハンセン病患者救済活動を通じてインドから
贈られたものとのことです
我々が見上げる場所には実物より少し小さい「御手」
置かれていました
観音石像が渡来したときの船がアミダーバ(阿弥陀如来)
であったことから、アジアの海の安全を祈願してこの
阿弥陀如来座像を建立したと書かれています
本堂のある平面から観音石像のある高台へ登る途中から
境内を見下ろした所の紅葉です
出口に戻る途中行きに立ち寄らなかった仁王門を入って
すぐの所にある灌頂堂を見ました
これで壷阪寺を後にして高取山に向かいました
寺の入り口を出たところにお城に向かう道がついていて
下の道路まで戻らずに行けるようになっていました
2010年に訪れた時はインドとの事業などに興味がなく
お寺自身もあまり見るものがないと思いましたが、今回
寺の説明を丁寧に読んでみて、お寺として立派な社会貢献
をされていることが理解できて気持ちを入れて拝観させて
頂きました。
三重塔の正面は目の祈りの場所でした
ここを合掌してくぐると眼病が平癒するとのこと
三重の塔全景
本堂全景(後に六角堂を伴っている)
壺坂霊験記のお里澤市の像
本堂を横から見ました
私には後に従えた六角堂が傾いて見えるのですが?
本堂へはスロープが着いていて車椅子でも入れそうです
本堂の中
手前が外陣、奥が内陣と言った堂内の配置になっていて
奥の内陣部分は六角堂の中に配置されていました
本尊は十一面千手観音です
仏様のお顔は東南アジア系のお顔にみえました
外の紅葉
道路を隔て、少し山側に登った所に大観音石像が立って
いました
インドに対するハンセン病患者救済活動を通じてインドから
贈られたものとのことです
我々が見上げる場所には実物より少し小さい「御手」
置かれていました
観音石像が渡来したときの船がアミダーバ(阿弥陀如来)
であったことから、アジアの海の安全を祈願してこの
阿弥陀如来座像を建立したと書かれています
本堂のある平面から観音石像のある高台へ登る途中から
境内を見下ろした所の紅葉です
出口に戻る途中行きに立ち寄らなかった仁王門を入って
すぐの所にある灌頂堂を見ました
これで壷阪寺を後にして高取山に向かいました
寺の入り口を出たところにお城に向かう道がついていて
下の道路まで戻らずに行けるようになっていました
2010年に訪れた時はインドとの事業などに興味がなく
お寺自身もあまり見るものがないと思いましたが、今回
寺の説明を丁寧に読んでみて、お寺として立派な社会貢献
をされていることが理解できて気持ちを入れて拝観させて
頂きました。
完